私のばぁちゃんは、特別養護老人ホームで最後は過ごした。措置時代、平成10年92歳でなくなった。
私自身は、2歳の頃から若松の有毛という場所で、祖父、祖母、父、母、兄と過ごして育った。
祖父じぃちゃんは、私が小学校二年生の時肺がんの骨転移で亡くなった。
背中にコブができて痛がってると、嫁である母が病院に付き添い、発見した時には末期だった。
九州厚生年金病院に入院し、じぃちゃんは苦しそうに亡くなったのを覚えている。
とても優しいじぃちゃんで大好きで、苦しんでいる姿を見て、神様はひどいと言っていたのを覚えている。
ばぁちゃんは気性の激しい人だった。
ジュリー(沢田研二)とプロレスのテレビを観るのが好きで、アメをやるから一緒にテレビを見ようとよく誘われて、テレビの下の扉から氷砂糖を取り出しては、私の口に入れてくれていた。
私が学生の時、ばぁちゃんは、大腸検査をした時に体調を崩し食事が食べれなくなった。
病院から電話があり、命が危ないのかと思ったら、混乱状態で点滴を抜くので大変だということだった。
認知症状の悪化💦
どうにか食べられるようにはなったが、認知症の祖母との生活がこんなに大変なものになるとは思ってはなかった。
自宅に帰ってきたら、
私をどこかにやったらいけないと監禁されそうになるわ。
財布が無くなったからと、何度も夜叩き起こされるわ。
私は、いいことを考えたと思い、同じ財布を👛買って、ばぁちゃんここにあるよと渡していた。
(ある時、手に二つ同じ財布を持っていて混乱していた💦)
満洲に昔いたことがあり、「クーニャン」とよばれたと思えば(娘のことらしい)、泥棒が服を変な風にしてタンスに戻してくると、自分で破ったりしてぐちゃぐちゃにして、いれていて。
泥棒のマークがあるとまた、呼び出される、勘弁してくれーと思い行く。
泥棒のマーク、それはYKKのマーク(笑)
泥棒が盗んでは、ここに戻していくと、見事、YKKのチャックの服を集めていたのには逆に感心した。
そしてある時は、人糞まみれで犬と帰ってきたのには驚いた。
そのころ農家の畑に人糞を撒いていたので、犬を散歩させ、こけたらしく💦
徘徊は酷くなり、近くの方がトラックでつれて帰ってきてくれたことも。
途中、歩けなくなりおかしいなと思ったら、大腿骨を骨折していたらしく、私も学生だったので知識もなく💦
ばぁちゃん、ごめんね。あの時は神様ありがとうと思ってしまったのよ。徘徊するのにホトホト疲れていた家族。
そんな時、ヘルパーさんが来てくれていて、うちの家にホッと明かりがさした感じだった。
(その方の影響でうちの母は、ホームヘルパーの資格を取りしばらく働いていた)
その後父が入院し、通院が大変になったので、いろんな介護施設のショートスティに行ってもらい。
父が亡くなった時も、ばぁちゃんには知らせない方がいいと葬儀に親戚は出さず。
ショートスティ先のスタッフから、ばぁちゃんが息子である父の名前を呼んで混乱していると言われた。
親戚に反対されたけど、いやっきちんとお別れをいった方がいい!!と勝手に初七日の日に連れて帰って、ばぁちゃんに父が亡くなったこと説明した。
じっと遺影をしばらくみて、
認知症であれ、きちんと受け止めたようで涙を流してウンウンと頷いている姿を今でも覚えている。
結局は、転々とショートスティや老健施設に行っていたけど、最終特養に入所させてもらった。
祖母は嫁いびりが酷く、うちの母が時々出て行ったこともあるくらいで、でも、認知症が酷くなっていくと、実の娘たちよりも嫁の母に対しての信頼をとても感じたし、母も最後はよくしたと思っている。
私は内孫で、本当に大変でくそばばぁだったけど、一番かわいがってもらった。
特養に入所して外泊させていたけど、最後は、帰る帰ると夜中に起こされて、あーっもうばぁちゃんの居場所は老人ホームになったんだと思う瞬間があり、平成10年最後は老衰で亡くなりました。
その頃はまだ、老人性痴呆と病名がつけられており、措置時代で、私も看護学生から看護師になった時なので認知症ケアがどんなものかわからず、家族としての立場での葛藤が沢山ありました。
内孫で一番そばにいたので、気性の激しいばぁちゃんには苦労はしましたが、今の高齢者に携われているのは、ばぁちゃんのおかげだと思っています。
今、天国で私のこと見守ってくれているかな(笑)
ばぁちゃん、ありがとね。